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- 2013.03.12 Tuesday
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働いているときに
「○○してもらっていいけ?」という言い回しをよく使っていた。
使っていながら、なんだか気持ち悪いというか、平たく言えば嫌いだった。
「このテレコ、書き起こしてもらっていいけ?」
「この書類、○○印刷の人が来たら渡してもらっていいですか?」
社内では誰もが普通に使っている言い回し。
なんとなく丁寧な感じがするし、使い勝手がいいのだけど・・・。
嫌いな理由は2つある。
1つは、丁寧な感じのわりに、断られることはあまり想定していない、ということ。
なんなら相手の仕事量を把握して、できると見越して頼んでいることも多い。
断られたら自分のスケジュールが狂う。それは困る。
そんな場面で、「○○してもらっていいけ?」だ。
なんとなく違和感を感じてしまう。
もう1つは、実はこっちのほうが引っかかっている部分なんだけど、
丁寧な感じのわりに、感謝の気持ちはあまりない、ということだ。
だって、頭のどこかで“やってくれて当然”と思っているのだから。
希薄な感謝の気持ち。
その気持ち悪さをどうにか補完するため、“ありがとう”という言葉を相手に投げていた。
しかし、それも結局は相手に悟られないようにするための手段であって、
そこに感情は込めていなかった、と今になって痛感している。
自転車旅行に出てからの“ありがとう”は
これまでのそれとはまるっきり質が違うからだ。
旅先ですれ違う多くの人々。たいていは、僕に対して否定的である。
「何してんだあいつは」
「いい身分だ、働きもせず」
「汚い格好だ、理解できない」
もしくは無関心。なんでもない目で僕を見る。
半分は僕の自意識過剰、被害妄想だろう。
けど、半分は当たっていると思う。
例えばコンビニの前の縁石に座り込んで食う飯の不味いこと。
どこかに行こうにも、他に場所なんてない。
けれども腹が減るから食う。この“作業”を終えないと走れない。
喫茶店のコーヒーの代金には場所代も含まれている。
そんなことに改めて納得させられてしまう。
そんな中で、僕に話しかけてくれる人がいる。
やさしくしてくれる人がいる。
道の駅でテントを張れる場所を尋ねたら、たくさんのみかんとお菓子をもらった。
駅のベンチでスーパーの弁当を食べていたら、近くにいたおばちゃんがグミをくれた。
走りにくい国道で、川沿いの自転車専用道路を教えてくれた。
食堂で会計のときに「疲れたら甘いものよ」とチョコレートをたくさんもらった。
ずぶぬれで宿に飛び込んだときは、服を乾かせるようにと1部屋余計に貸してくれた。
被災地の小さな銭湯で、「がんばってな、こんな街にも寄ってくれてありがとう」と声をかけてもらった。
感謝の気持ちでいっぱいになる。
これまで繰り返してきた“ありがとう”じゃ違うんだけど、
言葉を知らないから「ありがとう」と何度も言う。
腹から声が出る。
大きな街に泊まるときや携帯などの充電が必要なときは、マンガ喫茶に泊まることがある。
荷物を全部持ち込むことはできないので、テントなどは自転車に繋ぎっぱなしだ。
朝、自転車を見るまで不安でしょうがない。
けど、この約2カ月間の間に盗られたものはライトだけだ。
毎回ほっと胸をなでおろして、思う。
この旅行は、人の善意の上に成り立っていると。
走り出す前の“ありがとう”はただの言葉だった。
人間関係をうまく回すための潤滑油。手段だった。
喜怒哀楽、感情の起伏が小さい分、そこにこもる感謝の気持ちもまた小さいのだ。
ライダーハウスのオーナーが口をそろえて言うことがある。
「自分も若いときにお世話になったから、この仕事をしているんだ」
この旅行で出会った人、ほとんどが名前も住所も電話番号も知らない。
だから僕は恩を“返す”ことはできない。
できるのは、オーナーたちがそうしているように、恩を“渡す”ことだ。
なんでもない日常に感謝。
言うのは簡単だけど実践できない。
なんでもないことを実感してないからだ。
この突飛な旅行に出たことで、なんでもない日常がどれだけ保護された環境だったか分かった。
そして旅行中の現在も多くの人に生かされている。
あと1カ月もすれば鹿児島に帰り着いて、元通りの生活に戻る。
それでも今の感情を忘れずに過ごせれば、
今の“ありがとう”を忘れずに過ごせれば、ちょっとは勉強になったと言えるかもしれない。
月並みな話だけど、月並みなことを実感として持てたことは、
きっと損じゃないはずだ。
鹿児島県鹿児島出身。
錦江湾高校から鹿児島国際大学へ進学。保育士の道を志すも、免許も取らずに卒業。
卒業後は〈有限会社クラウド〉に入社。高校時代から愛読していた地元情報誌「CROWD」の編集に携わる。5年間勤務した後、2011年5月20日、退社。
同年6月6日、日本縦断を目標としたチャリ旅を開始。